家に帰って来て、ふぅ~・・・・と一休みしたのも束の間に

今日も変なことを疑問に思ったので、書き残しておこうと思います。

今回は、直接の話をするとリアルになってしまうので、例え話にさせてください。

 

戦後直後、日本が食糧難に喘いでいた時に、GIVE ME CHOCOLATE!・・・などと言って、子供たちが米兵からチョコレートを貰っていたことを思い出しました。

子供たちは、食べるものがなく、生きるために必死になって食糧を求めていた時代があったとしましょう。

当時は、自分たちが飢え死にしないように、必死でアメリカ軍の兵士に食糧を求めて、命乞いでも何でもやってチョコレートにありつこうと集まります。

チョコレートを貰った子どもたちは大喜びでチョコレートを食べます。

生きるためです。食べて当然です。何も悪くはありません。

しかし、その子供たちの中で、1つのチョコレートを貰って大喜びで食べる子供もいれば、チョコレートを貰った後、一旦後ろに下がって帰ったふりをして、もう一度、列の先頭に戻り、GIVE ME CHOCOLATE!・・・ともう一回ねだってくる子供もいることでしょう。

なぜ、1つのチョコレートを貰って喜ぶ子供がいるのに、もう一度列の先頭に戻り、チョコレートを2つ、あるいは3つと沢山貰おうとする子供がいるのか・・・・・不思議な気持ちになりました。

1つ、チョコレートを貰って喜んだ子供は、「これで今日は飢え死にしなくて済む」と思って、他のチョコレートは「まだ貰っていない他の子にあげよう」・・・・

などと思っているのでしょうか?・・・・・あるいは、2つ3つチョコレートをねだってきた子供は「今日は3日ぶりにアメリカの兵士が来たぞ、お腹がぺこぺこで死にそうだ」

「そうだ、1つだけでなく、2つ3つと先に貰っておけば3日後までは何もしなくても安心できる」・・・・などと考えて貰っていたのでしょうか?

私にはそれは分かりませんが何が言いたいのかと言うと、もし、私が彼らのような時代の子供だったら、どちらを選ぶのかすごく悩むのです。

生死を分ける極限な状態で、もし自分が居たら私もチョコレートを2つ、3つと選んでいると思います。それは卑劣ではありますが、例え誰かが犠牲になったとしても・・・・・。

そこで思うのです。

ありがたいことに、今の日本では食べ物で生死を分けるような極限な状態は、ほぼありません。

 

もし、私がこの現代でチョコレートを貰いました。(貰う人)3日後にまた貰えることは分かっていることとします。

1つ貰えれば感謝することができます。チョコレートは他の貰っていない人にあげたいと思います。(譲る人)

しかし、この現代の生死を分けるような極限な状態で無い世の中でも、2つ、3つを求める人がいます。なぜ、人は求めるのでしょうか・・・・それは生きる知恵・もしくは本能なのでしょうか・・・・。私には分かりません。 それとも、極度の状態によって態度を変えてしまう私は偽善者なのでしょうか・・・・・。

 

[嫁コメント]

うーんよく分からない。それが偽善者なの?

偽善者ってそんなこと思っていないのに、自分をよく見せようとして相手を助けたり、何と言うのか・・・

違うんだけど、自己満足に近いようなイメージ?

でもそうじゃない?相手のことを考えていますと言いながら自分のため・・・・って言う感じかな。

あはは。なんでそんなに僕の文章で考えるねん。おもしろいなぁ(僕)

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